イエスの奇跡37選|水をぶどう酒・五千人の給食まで全分類
イエスの奇跡37選|水をぶどう酒・五千人の給食まで全分類
イエスの奇跡とは、新約聖書の四福音書に散らばって記録された約37の出来事であり、治癒・自然・蘇生・悪霊追放の4タイプに整理すると全体像が見えやすくなります。福音書ごとの記録数も、マタイ約19、ルカ約20、ヨハネ8と差があり、初めて通読したときに場面が飛び石のように現れて戸惑った経験からも、
イエスの奇跡とは、新約聖書の四福音書に散らばって記録された約37の出来事であり、治癒・自然・蘇生・悪霊追放の4タイプに整理すると全体像が見えやすくなります。
福音書ごとの記録数も、マタイ約19、ルカ約20、ヨハネ8と差があり、初めて通読したときに場面が飛び石のように現れて戸惑った経験からも、この整理はとても役立つと実感しています。
なかでも、ヨハネ2章のカナの婚礼で水をぶどう酒に変えた最初のしるしと、五つのパンと二匹の魚で五千人を養った給食は、イエスの働きを象徴する代表例です。
とくに五千人の給食は、十字架と復活を除けば四福音書すべてに記録される唯一の奇跡であり、ラザロの復活を含む後半へ進む前に、その特別さを押さえておくと読み進めやすくなります。
イエスの奇跡とは何か|4つのタイプに分けて全体像をつかむ
イエスの奇跡は、新約聖書の四福音書に散らばって記録され、研究者の数え方では約37の出来事として把握できます。
福音書ごとの収録数も、マタイ約19、ルカ約20、ヨハネ8とそろってはいません。
これは、各福音書が同じ材料を機械的に並べた記録ではなく、異なる読者と目的に向けて編集された証拠です。
整理の軸を持つと、断片的に見えた奇跡が地図のようにつながります。
本記事では治癒・自然・蘇生・悪霊追放の4タイプに分け、出来事としての驚きだけでなく、何を指し示しているのかまで読み取っていきます。
読書会で「どれが一番すごいか」と話し合ったときも、すごさ比べをやめて4分類で見直した瞬間に、議論はずっと深くなりました。
奇跡が示す5つの領域:自然・病・罪・悪霊・死
奇跡は自然・病・罪・悪霊・死という5つの領域にまたがる出来事として理解されてきました。
そこではイエスが、それぞれの領域に権威を持つ者として現れます。
単なる超常現象の列挙ではなく、自然界も人の身体も、道徳的な破れも、見えない霊的存在も、そして死さえも支配下にあることを示す場面だと読むと、福音書の配置が見えやすくなります。
たとえば病の領域では、らい病人の清め、中風の人のいやし、12年間出血の止まらない女性、ベテスダの池で38年間病に苦しんだ人、そして生まれつき目の見えない人の開眼が並びます。
安息日に行われた癒しが律法学者との論争を呼んだのは、奇跡が出来事単独ではなく、教えと一体で読まれていたからです。
ここに、行為がそのまま解釈を求める構造があります。
出来事としての奇跡と『しるし』としての奇跡
奇跡を指す主要語には dynamis と semeia があります。
dynamis は「力ある業」を示し、神の力が働いた出来事そのものに目を向けさせます。
これに対して semeia は「しるし」であり、出来事の背後にある意味や、何かを指し示す象徴性を強調します。
同じ奇跡でも呼び方が違うのは、福音書が見せたい焦点が一致していないからです。
とくにヨハネ福音書は一貫して semeia を用い、奇跡を信仰を呼び起こすための標識として語ります。
ヨハネの7つのしるしは、カナの婚礼での水をぶどう酒に変えた出来事から、ラザロの復活までを順にたどり、イエスがメシアであることを浮かび上がらせます。
聖書の各福音書を読み比べると、同じ奇跡でも収録の有無や細部が少しずつ違い、一覧表を作って初めて「マタイにあってヨハネにない」対応関係が腑に落ちました。
本記事の分類:治癒・自然・蘇生・悪霊追放
本記事では、散在する奇跡を治癒・自然・蘇生・悪霊追放の4タイプに整理します。
最大グループは治癒で、福音書の中でも最も多くの場面を占めます。
自然の奇跡は、カナの婚礼での水をぶどう酒、五つのパンと二匹の魚による五千人の給食、嵐を静める奇跡、湖の上を歩く奇跡、大漁の奇跡が代表です。
蘇生の奇跡には、死後4日のラザロの復活、ナインのやもめの息子、ヤイロの娘があります。
ラザロはヨハネ11章で7つのしるしの第7に置かれ、受難の引き金にもなりました。
悪霊追放は、ゲラサの「レギオン」と豚の群れ、口のきけない人の解放、少年の解放が代表で、共観福音書に集中しヨハネには独立例がありません。
五千人の給食が十字架・復活を除けば四福音書すべてに記録される唯一の奇跡であることも、この分類の中で読むと位置づけがはっきりします。
治癒の奇跡|らい病・中風・盲人など最も数の多い奇跡群
新約聖書の奇跡の中で、癒しはもっとも数が多い समूहで、らい病人の清め、中風の人を立たせる出来事、12年間出血の止まらない女性の癒しなど、症状の幅も広いものです。
ここで目立つのは、病そのものの回復だけでなく、隔てられていた人が共同体の中へ戻される点でしょう。
癒しは治療の記録であると同時に、関係の回復を描くしるしでもあります。
美術館でらい病人の癒しや盲人の開眼を描いた宗教画を見ると、画家が「触れる手」や「開かれる目」をどのように強調しているかに驚かされます。
聖書の癒しの記述を症状別にノートで分類してみると、「触れて癒す」「言葉で癒す」「遠隔で癒す」など方法に幅があり、機械的な奇跡ではないと実感できました。
ベテスダの池で38年間病に苦しんだ人が一言で立ち上がる場面も、そうした多様さの中で読むと輪郭がはっきりします。
らい病・中風・長血など体の病の癒し
イエスの癒しは、単一の病気に偏っていません。
らい病人の清め、中風(体の麻痺)の人を立たせる出来事、12年間出血の止まらない女性の癒し、発熱の回復などが並び、症状ごとに場面も異なります。
共通するのは、苦しむ本人が社会の周縁に置かれていたことです。
癒しは身体の修復だけでなく、再び人と会い、食卓に着き、日常へ戻る入口になっています。
ベテスダの池では38年間病に苦しんだ人が癒されました(ヨハネ5章)。
長く諦めていた人に対して、イエスはまず「治りたいか」と問いかけます。
ここが印象的です。
治癒は単なる技術ではなく、本人の望みと応答を伴う出来事として描かれているからです。
立ち上がるまでの時間をほとんど要しない即時性も、他の癒しの場面と響き合っています。
12年間出血の止まらない女性は、群衆の中でイエスの衣に触れて癒されました。
触れた瞬間に回復するこの場面は、言葉より先に手が伸びる切実さを伝えます。
しかも、病が長引くほど孤立は深くなるため、彼女の癒しは症状の停止以上の意味を持つのです。
発熱のような身近な症状の回復も含めて見ると、癒しは日常の苦しみ全体に向けられていました。
盲人の開眼と『見えること』の象徴
生まれつき目が見えない人の開眼は、ヨハネ9章のしるしとして特別な位置を占めます。
ここでは視力の回復が起こるだけでなく、「見えるとは何か」が問われています。
物理的には見えている人が真実を見ず、見えなかった人が信じて「見える」ようになる対比が、この奇跡を単なる治癒以上のものにしています。
この場面は、ヨハネ福音書が奇跡を「しるし」と呼ぶ姿勢ともよく合います。
出来事そのものが目的なのではなく、そこからイエスとは何者かが見えてくる構造です。
美術館で盲人の開眼を描いた宗教画を前にすると、画家が目を開く一瞬をどれほど強く引き延ばしているかがわかります。
あの劇性は、テキストの一行が持つ重みを視覚化したものだと言ってよいでしょう。
安息日の癒しが論争になった理由
癒しの多くが安息日に行われたことは、単なる日付の違いではありませんでした。
安息日は当時最大級の宗教的争点であり、「安息日に働いてよいか」という問いが、律法学者との論争を引き起こしたからです。
癒しが行為として見なされる以上、そこには礼拝秩序をめぐる緊張が生まれます。
ただ、イエスはその緊張の中で、人を生かすことを優先する姿勢を示します。
律法の枠を破るためではなく、枠が本来目指していたはずのいのちを回復させるために癒しがある、という読みがここで立ち上がるのです。
だからこそ、奇跡は教えと切り離せません。
安息日の場面は、癒しが単なる不思議話ではなく、イエスの理解そのものを照らすしるしであることを浮かび上がらせます。
自然の奇跡|水をぶどう酒に・五千人の給食・湖の上を歩く
| 奇跡 | 典拠 | 出来事の要点 | 本文での位置づけ |
|---|---|---|---|
| カナの婚礼 | ヨハネ2章 | 六つの石の水がめの水を上質なぶどう酒に変えた | 公生涯最初のしるしとして、日常の祝宴のただ中で栄光が現れる |
| 五千人の給食 | 四福音書 | 五つのパンと二匹の魚で五千人を養った | 十字架・復活を除けば四福音書すべてに記録される唯一の奇跡として強調される |
| 嵐を静める奇跡 | 福音書の記述 | ガリラヤ湖の突風を一言で静めた | 自然界そのものへの権威を示す |
| 湖の上を歩く奇跡 | 福音書の記述 | 湖の水面を歩いて弟子の舟に近づいた | 恐れの中で信仰を問う場面として読む |
| 大漁の奇跡 | 福音書の記述 | 夜通し働いても獲れなかった後に大漁となった | 召命の引き金として機能する |
自然の奇跡は、イエスが病や悪霊だけでなく、創造そのものの秩序に働きかける方として描かれている点に特徴があります。
カナの婚礼からガリラヤ湖の出来事までを並べて読むと、派手な超常現象の集まりではなく、祝宴、飢え、恐れ、労働といった生活の場面に神の支配が及ぶ流れが見えてきます。
そこから後半のしるし論、つまりメシア性の証明へ橋がかかっていきます。
最初のしるし:カナの婚礼で水をぶどう酒に
公生涯最初のしるしは、ヨハネ2章のカナの婚礼で起こりました。
六つの石の水がめに満ちていた水が上質なぶどう酒に変えられる場面は、荘厳な神殿ではなく、祝宴の喜びを支える日常の空間で始まるところに意味があります。
最初の奇跡が生活の現場に置かれているため、読者はイエスの働きを抽象的な神秘ではなく、具体的な人間の祝いと欠乏に触れる出来事として受け取れるのです。
この場面を名画や映画で見比べると、画家や監督が水とぶどう酒の色の変化にどれほど工夫を凝らしてきたかが分かります。
透明から深い赤へ移る瞬間は、ただの物理変化ではなく、喜びが満ちる感覚そのものを映し出します。
六つの石の水がめという素朴な器もまた、奇跡が豪華な装置ではなく、身近な器物の中で起こることを静かに語っています。
ここはおすすめです。
四福音書唯一の共通奇跡:五千人の給食
五千人の給食は、五つのパンと二匹の魚を出発点として、群衆全体を養う出来事です。
十字架と復活を除けば四福音書すべてに記録される唯一の奇跡であり、それだけ初代教会が強く記憶したと考えられます。
小さな食べ物が分かち合いの中で十分に行き渡る構図は、奇跡が単なる増殖ではなく、共同体を生かす供給として理解されてきたことを示します。
読んでいて印象に残るのは、最初に少年が差し出したわずかなパンと魚です。
手元にある小さなものから物語が始まるため、奇跡は遠い天上の出来事ではなく、差し出す行為そのものから立ち上がるように見えてきます。
後の聖餐の象徴と結びつけて読まれてきたのも自然でしょう。
与えられたものを受け取り、分かち合い、全員に行き渡る。
そこに給食物語の核心があります。
おすすめです。
嵐を静め、湖の上を歩く
ガリラヤ湖の突風を一言で静めた奇跡と、湖の水面を歩いて弟子の舟に近づいた奇跡は、自然界そのものへの権威をはっきり示します。
波と風は人間の経験では制御しがたいものですが、ここではイエスの言葉と歩みの前で従属しています。
恐怖におびえる弟子に「なぜ怖がるのか」と問いかける流れは、奇跡が驚かせるためだけではなく、信仰を試し育てる文脈に置かれていることを伝えます。
この二つの場面も、名画や映画の表現を見ると面白いです。
荒れる湖の質感をどう描くか、暗い水面のうえに立つ人物をどう見せるかで、作品ごとの想像力がはっきり分かれます。
湖の上を歩く奇跡は視覚的に強烈ですが、同時に弟子の不安を露わにする装置でもあります。
自然の力に対する権威と、揺れる心に向けられた問いが、ここで重なっているのです。
夜通し働いて何も獲れなかった漁師たちが、イエスの言葉どおり網を下ろすと大漁になる場面も見逃せません。
これは派手な現象としてだけでなく、弟子たちが従い始める召命の引き金として機能します。
自然の奇跡は、創造の秩序を支配する者というイメージを読者に残し、そのまま後半のしるし論へつながっていくのです。
蘇生の奇跡|ラザロ・ナインのやもめの息子・ヤイロの娘
ラザロ、ナインのやもめの一人息子、会堂長ヤイロの娘という3つの場面は、死者をよみがえらせる物語の中でも配置と意味がはっきり異なります。
ヨハネ11章のラザロは、死後4日が経って墓に葬られたところから呼び戻され、マルコやルカに見える家族の悲嘆に寄り添う蘇生譚とは別に、死そのものへの権威を最も強く示すしるしとして読まれてきました。
しかもこの出来事は、多くの人が信じた結果として当局の危機感を高め、イエスの受難へ物語を進める転換点にもなっています。
死後4日のラザロ『出て来なさい』
ラザロの復活が際立つのは、単に死人が生き返るからではありません。
ヨハネ11章では、すでに死後4日が経ち、墓に葬られていたラザロに向かってイエスが「出て来なさい」と命じ、布に巻かれたまま外へ出てくる場面が描かれます。
ここで示されるのは、死臭や腐敗を前にしてもなお及ぶ権威であり、ヨハネ福音書7つのしるしの最後(第7)に置かれる理由もそこにあります。
絵画でこの場面を見ると、布に巻かれて立つラザロと、目を覆う人々の表情の対比が劇的で、テキストの「四日経って臭う」という一行が画面全体の緊張を支えていることに気づかされます。
ラザロの出来事は、奇跡の頂点であると同時に、物語上の分岐点でもあります。
多くの人がこれを見て信じたため、当局が危機感を強めたと描かれ、最大のしるしがそのまま十字架への道を開くのです。
命を取り戻す行為が、ただ慰めで終わらず、イエスの運命そのものを押し進めるという二重性が、ヨハネ11章の読みどころだと言えるでしょう。
ナインのやもめとヤイロの娘
ナインの町での一人息子の蘇生と、会堂長ヤイロの娘の蘇生は、ラザロとは別の角度から「生き返り」を描きます。
ナインでは、母であるやもめが息子の葬列に従っている最中に行列が止められ、ヤイロの家では幼い娘に向かって「起きなさい」と語りかける場面が中心になります。
どちらも、失われた命そのものだけでなく、遺された家族の悲しみが物語の軸に置かれている点が特徴です。
奇跡は抽象的な力の誇示ではなく、崩れかけた生活の中心に降りてくるものとして語られます。
この2例は、ラザロの復活よりも「情」に近い場面として読めます。
やもめの孤立、父親の恐れ、幼い子を失う痛み。
そうした具体的な喪失に寄り添うからこそ、蘇生は単なる演出ではなく、人が耐えきれない悲しみの只中で起こる救いとして響くのです。
受け取る側にとっても、奇跡が遠い神話ではなく、家族の顔と声を持った出来事として立ち上がってきます。
蘇生とイエスの復活はどう違うか
ここで混同しやすいのが、蘇生と復活の違いです。
ラザロ、ナインの一人息子、ヤイロの娘の3人はいずれも、よみがえったあとに再び死を迎えます。
つまり蘇生は、一度失われた命が一時的に回復する出来事であり、死の支配を最終的に終わらせるものではありません。
これに対してイエス自身の復活は、死を根本から覆し、もはや死に戻らない出来事として語られます。
この違いを押さえると、聖書の物語が持つ神学的な重みが見えてきます。
ある読者は、よみがえった人は結局また死ぬのだと知って、初めて蘇生と復活の差をはっきり理解したものです。
ラザロの復活は最大のしるしとして死への権威を示し、同時に受難の引き金にもなりましたが、それでもなお目的はイエスの復活に先立つ前触れにあります。
蘇生は一時的な命の回復、復活は死そのものを越える出来事。
この区別を外さないことが、3つの物語を正しく読む鍵になります。
悪霊追放の奇跡|ゲラサの豚・口のきけない人の解放
ゲラサの悪霊追放は、病を霊的な問題としても読む当時の世界観を背景に、イエスの説教や治癒と並ぶ解放の行為として語られています。
汚れた霊を叱りつけて追い出す場面は、単なる怪異譚ではなく、神の国が現れつつあるしるしとして位置づけられるのです。
現代の感覚では戸惑いやすい主題ですが、その前提をたどると、物語の輪郭はむしろ鮮明になります。
ゲラサの『レギオン』と豚の群れ
代表例としてまず挙がるのが、ゲラサ(ガダラ)地方の墓場に住む男の解放です。
取りついた悪霊は『レギオン(ローマ軍の軍団)』と名乗り、ひとりの人間の内部に複数の存在が居座る異常さを際立たせています。
しかも追い出された悪霊は約2000匹の豚の群れに入り、群れが湖になだれ込んだとされるため、支配の深さが目に見えるかたちで描かれるのでしょう。
この場面を読んだとき、『レギオン』という軍団を意味する名が、被支配下に置かれた社会状況を映しているという解説に強く引きつけられました。
奇跡物語は信仰の記述であると同時に、当時の政治的な圧迫感や集団的な息苦しさを背負っているのだと気づかされます。
豚の群れが湖へ突き進む劇的な展開も、悪霊の数の多さだけでなく、そこからの一斉解放を読者に強く印象づける仕掛けだと言えます。
口のきけない人・少年の解放
口のきけない人や、発作に苦しむ少年からの悪霊追放も、解放の即時性がはっきり示される例です。
悪霊が去った直後に本人が話し始めたり、正気に戻ったりするので、回復は抽象的な説明ではなく、目で確かめられる変化として提示されます。
ここでは「治った」という結論よりも、封じられていた働きがふたたび開く過程そのものが語りの中心です。
悪霊追放を現代の感覚で読むと、どうして病や失調が霊の問題として結びつくのか戸惑いが先に立ちます。
もっとも、当時の病理理解と世界観を補助線として引くと、これらの場面はばらばらな怪異ではなく、抑圧からの解放として一貫して見えてきます。
言葉を奪われた人が話し、乱れていた少年が平静を取り戻す、その変化こそが癒しの核心です。
悪霊追放と神の国の到来
悪霊追放は癒しと一体で語られることが多いですが、当時の世界観では病と悪霊が密接に結びついて理解されていたため、独立した型として扱う価値があります。
イエスが汚れた霊を叱りつけて追い出す場面は、説教・治癒と相補的に描かれ、神の国の到来を示すしるしとして機能します。
見えない支配に終止符が打たれるという点で、悪霊追放は福音書の中でも際立った意味を持つのです。
悪霊追放のエピソードは共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ)に集中し、ヨハネ福音書には独立した悪霊追放の記事がありません。
この偏りは各福音書の関心の違いを映しており、奇跡の分布そのものが書き手の視線を読む手がかりになります。
どの福音書が何を強調し、何を省くのかを見比べると、悪霊追放は単なる奇跡の一種ではなく、物語全体の神学的な重心を支える要素だと分かります。
ヨハネの『7つのしるし』と奇跡が伝えようとしたこと
ヨハネ福音書の奇跡は、単なる驚異の列挙ではなく、イエスが何者であるかを段階的に示す「しるし」として配置されています。
カナの婚礼からラザロの復活までの流れを追うと、喜びの回復から命そのものの回復へと主題が深まり、物語全体が信仰へ読者を導く構造になっていることが見えてきます。
奇跡を史実として読む立場と、象徴的な語りとして読む立場は並び立ちますが、どちらの読み方でも中心にあるのは「この出来事は何を指し示すのか」という問いです。
7つのしるしの一覧と配置
ヨハネ福音書は奇跡を体系的に7つのしるしとして並べます。
カナの婚礼で水をぶどう酒に変える出来事、役人の息子の癒し、ベテスダの池の癒し、五千人の給食、湖上歩行、生まれつきの盲人の開眼、ラザロの復活です。
順番そのものに意味があり、最初は祝宴の場での変化として始まり、やがて病、飢え、恐れ、盲目、死へと扱う領域が重くなっていきます。
読んでいくうちに、福音書が意図的に信仰の深まりへ読者を連れていく構成だと実感できます。
とくに五千人の給食が第4のしるしである点は、物語の転換点として印象的です。
パンを分け与える場面は、単なる満腹の記録ではなく、のちに命のパンという理解へつながる土台になります。
最初の祝宴の喜びから最後の死者の復活までを順に通読すると、ヨハネが出来事を並べる順番そのものに神学を込めていることがよくわかります。
流れが語るのは、力の誇示ではなく、イエスの存在が人間の欠乏をどう満たすかという問いなのです。
なぜ『しるし』と呼ぶのか
ヨハネ福音書が奇跡を dynamis ではなく semeia と呼ぶのは、出来事の派手さより、その出来事が何を指し示すかを重視するからです。
水がぶどう酒になるとき、そこに見えるのは単なる変化ではなく、新しい喜びと満ち足りた時代の到来です。
五千人の給食も同じで、目の前の食事は、もっと大きな意味での命の糧を示す象徴として読めます。
しるしは、目に見える事実を通して、目に見えない現実へ読者を案内する言語だと言えるでしょう。
この理解は、奇跡の目的をはっきりさせます。
驚かせるための力比べではなく、イエスがメシアであり神の子であることを信じさせるために語られているのです。
福音書自身が「これらが書かれたのは、あなたがたが信じるため」という趣旨を示している以上、しるしは信仰を呼び起こす装置として機能します。
読書会で「奇跡は本当に起きたのか」と問われたとき、史実か象徴かを先に決めるより、「この奇跡は何を指し示すために置かれているか」を問うほうが、テキストはずっと豊かに開けました。
問いの置き方ひとつで、同じ本文の見え方は変わるのです。
史実か象徴か:解釈の幅
奇跡を史実とみる立場と、文学的・象徴的な表現とみる立場は、長く併存してきました。
どちらか一方だけを採る必要はなく、ヨハネ福音書の読みでは、その併存自体が自然です。
史実として受け取る読者にとっても、しるしという呼び方は出来事の意味づけを促しますし、象徴として読む読者にとっても、物語はイエスとは何者かを語るための強い構造を持っています。
実際にこの7つのしるしを並べて眺めると、議論の焦点は「起きたか起きないか」だけでは足りないとわかります。
大切なのは、テキストが読者に何を見せ、何を信じさせようとしているかです。
だからこそ、解釈の幅を閉じずに読む姿勢が役立ちます。
自分の立場を保ちながら、しるしが向ける先を受け止めてみてください。
そこに、ヨハネ福音書らしい深さがあります。
大学院で古代オリエント史を専攻し、聖書文献学を中心に研究。旧約・新約双方の成立背景や文献学的知見を平易に伝えることをライフワークとしています。
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